昭和46年2月21日特別奉修委員



 アメリカの三重苦の、で有名なヘレン・ケラーという方がおられますね。あの人が書かれた書き物の中に、例えば、今、山の谷間のせせらぎの音があるだろう、またそこを小鳥が囀って泣き渡っておるだろう。そのせせらぎの音を、小鳥の囀る鳴き声を聞かせて頂いたら、神様、今、命を召されてもかまいませんといったような言葉がありますね。ほんとにそのせせらぎの音を聞くとか、小鳥の囀りを聞くとか、その、それを目の当たりに見るとかということができるということが、そのような大変な値打ちを持ったものだということですね、私ども。

もう見ることも聞くこともできる。ね、見ることも話すこともできるということ。ほんとに広大なおかげといやあこんな広大なおかげはないと思うんですけどね。けども、私は思いますのにね、私どもはもう随分見るも聞くも話すこともしてきたし、言うてきたし、もし今目が見えなくなり、口が聞けなくなり、聞くことができなくなっても、私は却って、その視界、または音響の世界といったようなものから、こう断絶というか、そこに絶たれてもね、今の私なら却ってありがたい心境が開けてくると思うですね。

もう目も見えない、誰が言うとっても聞こえない、自分はもの言おうと思うてても言えない。もう言えなくても見えなくてもね、それは聞こえなくてもね、いわゆる自分の今の心というものが、現在の状態である限りですね、もういよいよ、それこそ心の中に金の鈴の音を打ち振るような音色を、おそらく聞き続けて、ありがたいことになってくると思いますね。

これならみなさんでもそうかもしれないですよ。先程、田中さんがおっしゃっておられるように、今日はあの、なんか文化祭かなんかがあるですね。それに踊りなんかも踊ってくれとこう言われるけども、この頃そういう楽しいという何とかから絶ちたいとこう言うておられますね。または以前のように面白くないとこう言っておられる。ということはね、もう自分の心ひとつの上に喜びがね、感じておられる証拠だと思うですね。

はあ、もうテレビも見たい、話もしたいというね、そうじゃないのですよ。ですから、もしそういう世界というものがですね、私どもに与えられて、そういうすべての見る聞く、または話すと言ったようなことから絶たれてもですね、そこに、言わば却って幸せを感じれれる心。その心の使い方をね、私は覚えるのが信心だと思うですね。

今日はあの佐田さんのお届けにも、これはあの大阪の泉尾の教会の、まあ特別なセリフというかね、言葉ですけれど。「大臣になれといったような言葉がありますね?女は家の台人になれ。男は社会の台人」て、「だいじん」というのは、土台の台の人と書いてある。だから、私が頂くのは、そのそういう、そういう台人という意味もあるけれども、台というのがム口と書いてあるということですね。言うなら、佐田さんなら佐田さんが、例えばこれからこれまで十分の説明をしきっても、それをほんの一語か二言で、ぴしゃっと言えれるようなね、言うなら言わんなりでもおかげの頂けておれれる状態。

例えば、佐田さんなんかは、共励会なんかに出てからお話をなさっておられるのはもうこっちから見よって?寂しゅうして寂しゅうして堪えんというような表情をなさっておられるんですね。自分が内容を持っておられる、言えれる幻術?というかそれを持っておられるでしょう、だからそれを話されんということは、非常にやっぱ苦痛らしいんです。もうー、じっつに寂しい顔をされるんですね。私がこっちから見とってから、はあ、あげなこっちゃなかと、ここでこげん言やよかとこで、ちゅうようなものがありありと見えるわけですね。

ですから、そういう素晴らしい内容を持っておられる佐田さんが、言わんで済む、むしろ言わんで済むことのほうがありがたいと分かられたらね、もっと素晴らしいことになるだろうと思いますね。言わばもうおし?になったつもりでね、ほんと言う以上のことが現せれるようになるということなんですよ。

だから信心とは私はそれだと思うんです。今、私が目が見えなくなっても、聞こえなくなっても、見えなくなってもね、私はひょっとすると却って素晴らしいね、生神の境地にどんどんどんどん近づいていけれるような気がするです。自分の心の使い方を、ここまで稽古させて頂いたのですからね。

今日は、ここに来てそんなことを、ここ2、3日、私目が非常に悪いんですよ。その時から目をつぶってばっかりおるんですけれども。つぶっておるその世界と、目に見えない世界というものがね、また、反対の意味でありがたいということを感じさせて頂くようなことからね、そんなことをご祈念中感じましたね。

みなさんどうでしょうか、今見えなくなったら、はあ、まだあれも見たかった、あれもふみこうも?言いときたかったといったようなことではつまらんことだと思いますね。どうぞ。